文学はひとによって光になったり影になったり、或いは突然空洞になったりする。観察者により変化するところ、まさにフィクションの産物とも言える。
文学=x。
このxの部分には果たしてなんでも入り得るのだろうか。
文学は変数だ。なかなか静物として捉えられない。そういったことを感じることがときどきある。
本日の夕日は魅力的だった。
連なった山々と、厚ぼったい雲とに挟まれた夕日は、今にも眠ってしまいそうな、そんな雰囲気を帯びた目つきに見えて、そうしてゆっくりとその瞳を閉じてゆくように沈んでいった。地上では雪が、ほんとにわずかばかり降っていた。
いい景色を見たあとは妙にうれしくなるものだ。
文章単体で、果たしてそれを文学と呼んでいいのだろうか。
詩は一行でも詩になる。そうして詩も文学なら、一文だけでも文学にはなりそうにおもえる。
けれども文章となると、ある程度の長さ、まとまりがないと文学とは言い難い感覚もある。物足りないとでもいうのか、これは散文特有の、捉え所のむつかしさかもしれない。
夜になって、きょうが祖母の命日であることをオカンがようやく思い出した。それまで家族全員忘れていた。
もう33回忌も過ぎた。お墓も数年前新調した。仏壇には毎日父が線香をあげている。なので忘れたことは許してくれるだろう。これが死者に対する、人間の自然な忘れ方なのだと、そういうことにしておきたい。
文学とはとても原始的だ。実質紙とペンがあれば大抵のことはなんとかなる。
むしろそのくらい簡素な方がいいのかもしれない。特別な道具も準備も必要がないのだから、普通のことを表現するのに一番適した芸術なのじゃないだろうか。
文学はシンプルであれ━━いや、これは他の華やかな芸術への、単なるひがみかもしれない。