151文字の文学

日々の事々を151文字で書くブログです。

文学=x

 文学はひとによって光になったり影になったり、或いは突然空洞になったりする。観察者により変化するところ、まさにフィクションの産物とも言える。

 文学=x。

 このxの部分には果たしてなんでも入り得るのだろうか。

 文学は変数だ。なかなか静物として捉えられない。そういったことを感じることがときどきある。

文学とは何故か

 文学とは、それ自体が答えではなくて問いかけである、と確か大江健三郎氏が『新しい文学のために』という本の中で書いていた気がする。

 新しいものは常に問いかけから始まるのだ。文学に何かはない、常に何故かが生まれている。そうしてそんな隙間から可能性なんてものが顔をのぞかせることがある。

一命一泊

 「一名一泊」と変換しようとしたら「一命一泊」と候補に出てきた。

 こんな機械仕掛けのパソコンにも情緒があるのだろうか、とそのなにか文学的な語感をしばらく味わっていた。

 ひとつのいのちがひとつところに泊まっている。まるでいのちの本質へと一歩踏み込むかのような、そんな偶然の単語のようにおもえた。

夕日

 本日の夕日は魅力的だった。

 連なった山々と、厚ぼったい雲とに挟まれた夕日は、今にも眠ってしまいそうな、そんな雰囲気を帯びた目つきに見えて、そうしてゆっくりとその瞳を閉じてゆくように沈んでいった。地上では雪が、ほんとにわずかばかり降っていた。

 いい景色を見たあとは妙にうれしくなるものだ。

文章と文学の間

 文章単体で、果たしてそれを文学と呼んでいいのだろうか。

 詩は一行でも詩になる。そうして詩も文学なら、一文だけでも文学にはなりそうにおもえる。

 けれども文章となると、ある程度の長さ、まとまりがないと文学とは言い難い感覚もある。物足りないとでもいうのか、これは散文特有の、捉え所のむつかしさかもしれない。

死者の忘れ方

 夜になって、きょうが祖母の命日であることをオカンがようやく思い出した。それまで家族全員忘れていた。

 もう33回忌も過ぎた。お墓も数年前新調した。仏壇には毎日父が線香をあげている。なので忘れたことは許してくれるだろう。これが死者に対する、人間の自然な忘れ方なのだと、そういうことにしておきたい。

文学とは

 文学とはとても原始的だ。実質紙とペンがあれば大抵のことはなんとかなる。

 むしろそのくらい簡素な方がいいのかもしれない。特別な道具も準備も必要がないのだから、普通のことを表現するのに一番適した芸術なのじゃないだろうか。

 文学はシンプルであれ━━いや、これは他の華やかな芸術への、単なるひがみかもしれない。